思考

『アラサーにして未だ未だ未熟』〜2021年を振り返る〜

思考




プロローグ



 「最初だけ高頻度にならない様に」

ブログ2投稿目は自身にプレッシャーを掛けながらの投稿。


 多い少ないはさて置き、
有難いことに初投稿したブログは今日現在50回程閲覧して頂いている。
現状、ブログを閲覧してくれている方は私のことを知っている人が殆どだと思うが、
改めて有難う御座います。


 さて今回のブログは、2021年の出来事から私が考えてきたことを伝えていきたい。
自身の思考を“備忘録”という形で残すことがこのブログの大きな目的でもある。
(ブログの目的については後日ブログにしたいと思ってる)


ちなみに、どんな内容を投稿しようか考えた時、

「2投稿目で振り返りブログか、私個人の振り返りなど興味ないよな」

とも思ったのだが、
このタイミングを逃したら絶対に振り返りの記録は出来ないだろうということで。


人間、物事を後回しにしたら大抵のことはそのままやり過ごしてしまう生き物だと思ってる。
また、人間は忘れる生き物だ。



そして振り返ってみると、アラサーにして未だ未だ未熟者だ。






2021年の出来事から考えたこと



出来事① 会社を退職

 2021年最大の出来事。
退職したことで沢山のことを学び、沢山のことに気付く事が出来た。
今は苦しいこともあるけど、先を考えると本当に決断して良かったと思ってる。
(詳細は次章より)

そして、これから仕事として“なにをやっていきたいか”を考えた。


変化を与え、変化を感じる事が出来る仕事



特にこれまで自分が関わってきた分野において、感じてきた現状を変化させていくこと。
そこに気付き、今チャレンジしている最中でもある。





出来事② 新しい学年を担当

 私はサッカーの指導者の活動をしてる。
その中で今年度から新しい子どもたちを指導することになった。
昨年度まで、3年間同じ子どもたちを指導してきた中で、
サッカーの指導者として多くの経験をしてきたつもりだった。
しかし、自分の経験通りにいかないことの方が多かった。
そして「何得意げになってるんだ」と気付かされた。


経験からくる妄想は危険だ


経験は色々な課題を解決することに繋がるけど、
経験からくる妄想をしてはいけない。

どんなことも現実を見て、受け入れて、そこで初めて経験も活かして改善策を考える。
イメージ通り行かなかった時に対応出来る準備を怠らないこと。

改めて子どもたちへの指導を通じて学べたことだ。





出来事③ 人との出会い

 有難いことに、今年は新しい出会いをきっかけに、
活動、経験、アイディアも生まれた。


自分の世界だけだと頭が凝り固まってしまう


同じ世界にいると人間洗脳されているんだなと。
様々な人と会う事は自分の未熟さを痛感することになるけど、
人と交流する事は大切だと実感した。





出来事④ ブログサイトを開設

 年度末にホームページを一週間程掛けて作成。
ブログサイトの運営を試みることに。
その中で一番感じたこと。


自分で作り、自分で発信することが一番の学びになる


凄く普通な感想になってしまった(笑)
そんなブログですが良かったら購読お願いします🙇‍♂️





“現実”


 細かく掘り下げると未だ未だ出来事は沢山あるが、
そんな2021年の出来事から考えたことを一言でまとめてみる。


現実を知れた


 2021年の出来事を通して、ふたつの現実を知れた。

自分について勘違いしていた現実

自分が実際に置かれている現実


もう一歩言語化。

私がどんな人間なのか現実を再認識

自分が今おかれている社会の立ち位置の現実


こう表現してみると自分の中で結構しっくりくる。

今まで私は、自身のことも社会の立ち位置も、間違えて捉えていた。
しかし、2021年の出来事からこのふたつの現実を知れた。
といったところだろうか。

“私がどんな人間なのか”
については次の章で書き記していくことにする。


自分が実際に社会で置かれている立ち位置”
については、ブログ初投稿に記した内容と被るので割愛させて頂く。
※内容について気になる方は下記添付URLにて。

https://oyajino-biboroku.com/thinking/68-2/





私はどんな人間なのか


 章題にてちょっと表現を変えてみた。
“が” と “は”。
接続詞ひと言で伝わるニュアンスが異なる。
日本語の難しいところであり、面白いところだ。

まあ単純に、“私どんな人間なのか” という章題にした時にしっくりこなかった。
“が” にするとなんか私自身で完結してしまう気がしただけである。



 では、私はどんな人間なのか。


まったく器用でない、とても不器用な人間である


私は自分のことを“器用”な人間だと思っていた。
大体のことをそつなくこなすタイプ、
“器用貧乏” ということだ。

ちなみに、器用貧乏というのはあまり良くない言葉みたい。

きよう‐びんぼう ‥ビンバフ【器用貧乏】

どのようなことでも一応はじょうずにできるため、かえって一つの事に集中できずに終わること。いろいろの事に手軽に役立つため、かえって大成しない様子。また、その人。

https://kotobank.jp/word/%E5%99%A8%E7%94%A8%E8%B2%A7%E4%B9%8F-478916




 なぜ“器用貧乏”?
そう感じたのは、サッカーが良い例だ。
私はゴールキーパー以外のポジションを、質に差はあるけど何となく対応する事が出来る。
そして大成出来なかった(笑)
その感覚もあったので、私は器用貧乏で、特に大きな武器がない人間だと思っていた。



 不器用だと思った理由に話を戻そう。

私は、何をするにしても感情を優先することが多いことに気が付いた。
その時の感情を無視して言動をすることが苦手であり、
言動自体が感情に左右されてしまうことが多い(普通なのかもしれないが)。


興味が持てなければ、思考停止
怒りや悲しみがあると、行動停止


凄く不器用ではないか。
最早、子どもみたいなものだ(笑)
やっぱり未だ未だ未熟である。




器用とは


 補足。

逆に”器用”とはどういうことか。
器用について少し考え、器用について自分なりに言語化をしてみた。


言動と感情を切り離すことが出来ること


やらなければいけない行動が感情に左右されることがない、
器用な人は行動をする際に感情が先に来ない気がする。
こんなイメージ。

意外とわかりやすいのではと、
少し自画自賛(笑)



あれ、
ということは、私はサッカーについては器用ということか。
サッカーをやっている時はプレーと感情が切り離されていたということなのか。
確かにしっくりくる気もする。
なんか小学5年生あたりからそんな感覚でサッカーをしていることが多かったような。
サッカー中は凄く大人ということ?
早熟すぎたのだろうか(笑)
まあ、サッカーについては別の機会に記していきたい。



エピローグ



 「アラサーにして未だ未だ未熟」
2021年は自分が置かれている現実を痛烈に感じた年になった。
そして2021年は確実に人生の岐路に立った年だ。
そして今も尚、その岐路を彷徨っている。



 2022年はどんな1年になるだろうか。

まず器用に対応することが必要な場面は沢山あるし、それが社会人たるもの。
やらなければいけない事と何が有意義であるかを認識し、判断する。
私自身の現実を受け入れた中で、どう言動を起こすか。

その言動の積み重ねが、自らを成長させると思っているし、
大切なことではないか。
2022年も岐路を納得いくまで彷徨いたい。




最後までお読みくださり有難う御座いました。
そして、2021年も有難う御座いました。








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